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2008年10月30日

タイをよく知る

mixiの日記

突然だが、僕はイサーン語が話せる。 タイの田舎の風習に明るく、知識だけでなく、それを実技として、イサーンで限りなく目立たないように過ごす為の術を持っている。 そういう意味で僕は非常に特殊だ。

で、僕がタイについて知っていることを話すと、100%の日本人がひく。ひかなかった人は今のところ1人もいない。 はっきりいって申し訳ないのだが、それはこの文書を読んでいるあなたも含まれる。

でも、僕は僕が知っていることが正しいことを知っているので、説明を試みる。 そうすると、マニアックだとか、細かいとか、間違ってるとか、タイ人はバカだからほうっておけ、とか、そういう反応が返ってくる。

こういう反応をする人は、ノウミソのキャパシティー的にタイの実情を理解する能力がかけているので、ほうっておけよ、という見方もある。 でも、僕はそういう考え方は卑怯だと思うので、説明をあきらめたくない。 しばし、頑張る。

そして、僕の周囲に日本人は1人もいなくなった。
僕は結構寂しいのである。



このことをとあるタイ人に相談した。

「僕はタイのことをよく知っている。 でも僕が知っていることを日本人に説明しても絶対に理解しない。 疲れた。 どうすればいいか。」

「(わからない人をやっつけようとしないで)黙って笑っているのが一番だ。」


これが正にリアル、タイだ!
貴様ら! 愛しきガンコな日本人よ、それが理解できるか!




余談になるが、 前、あるタイ人と話している時、僕がタイ語を話すとほとんどのタイ人はびっくりして逃げるんだ、という話をしたら 「あぁそれなら 『実は僕、イサーン人と日本人のハーフなんだ』っていっちゃえばいいのに、何で言わないのか」って言われた。 そうやっていえば「あぁだからイサーン語も日本語もタイ語も話せるのか」と相手に納得させることができるのに、っていうのだ。 そうすれば 「なんで日本人なのにこんなタイ語が話せるのか、絶対ウソに決まってる」っていう風に不気味がられて逃げられることはなくなるよ、って言われた。バカだなぁとも言われた。

これから、僕、日本人にもそういおうかな。 マジ。

  


Posted by ピイカウホア at 10:00Comments(19)

2008年10月28日

論理の世界と心の世界

9:24 PM 10/27/2008

最近、僕はよく価値観のピラミッドを思い浮かべる。 それはこういうものだ。 片方は針の先の様にとがった頂点になっている。 これは論理の世界だ。 論理の世界には答えはひとつしか存在しない。 このひとつの点に到達するために何十年もの修練が必要だったり多大な犠牲が必要だったりする。 そしてもう一方は面になっている。 こちらは心の世界だ。 こちらは答えはひとつではなく無数にある。 あらゆる考え方あらゆる価値観が許される。 このふたつの考え方は対極だ。

論理の世界に心はない。 1+1は2だ。 この1+1が2であるという事実は、親が泣こうが子が苦しもうが絶対に変化しない。 一方、心の世界では1+1が3であったり4であったりする事は許される。 これは論理的には正しくないことかもしれない。 しかし、むしろそうやって答えを臨機応変に変化させることで人々が希望を失ったり自信を喪失したりしてしまうことを防ぐことができるという、論理の世界にはない大きな特徴がある。

論理の世界というのは、まるで空気もない水も無い全くの真空の世界のようだ。 ここは人が住む世界ではない。 しかし人間はここに到達するためにあくなき努力を積み重ねる。 ここには、多大な犠牲を払い厳しい修練を乗り越えることが出来た者のみ住むことが許される。

心の世界はそうではない。 ここには水もあれば木も緑も存在する。そこには生命があり快適がある。 そこには誰もが住むことができる。



そして、僕はまた語学というのが、学問というよりは、音楽の訓練に近いようなものを感じている。要するに、カラオケが上手に歌えるようにするにはどうすればよいのか、というような、または、スターのものまねが上手くなるためにはどうすればいいのか、というような、比較的、運動神経的な努力ではないかと思う。 訓練する過程として、カラオケで上手に歌うためにはどうすればいいのか、という感覚と、語学が上達するにはどうすればいいのか、という感覚にはかなり近いものがある。

そして、この音楽の訓練というのは、この論理の世界と心の世界を同時に行ったり来たりすることに他ならないのだ。

つまり、こういうことだ。 心だけでは何も通じないが、とはいえ技術だけでも何も通じないということだ。 知識の無い心だけでは、それは赤ん坊がうわごとを言っているのと全く同じになってしまう。 表現したいことが現実の世界で像を結ぶことが出来ないのである。 しかし、心を否定し、ひたすら修練を積んで表現する技術だけを手に入れたとしても用を成さないのである。



僕が今住んでいるタイには、タイ人をバカだと断定する日本人が少なくないのだが、本当にそうだろうか。 タイ人は生まれてから論理的な訓練をする事がない。 だから論理的な考え方はとても劣っているものがある。 そのことは否定しない。 ただ、その点、日本人もかなり近いものがあるということがいいたいのである。 実は日本人も生まれてから論理的な訓練をする事がとても少なく、その点においてタイ人と非常に近いものを持っている。

例えば「雨があがるか、傘を持っていたら、行きましょう」 という文章があったとする。 次に「雨があがらず傘を持っていなかったら行きません」 という文章を読んだ時、これらが論理的に全く同じ価値を持っているということを直感的に見抜くことができるだろうか。 これはドモルガンの定理と呼ばれる論理の初歩だが、知っていただろうか。


例えば「上野・不忍池でデートをすると必ず破局する」というジンクスがある。 このジンクスが本当に正しいということを証明するためには、以下の全4パターンのうち、最低2つのパターンを調査しなければいけないのだが...。

1)不忍池でデートしたカップルの結末を追跡して調査する
2)不忍池でデートしなかったカップルの結末を追跡して調査する
3)破局したカップルがかつて不忍池でデートしたことがあるかを調査する
4)結婚したカップルがかつて不忍池でデートしたことがあるかを調査する

このうち、当然1はチェックすることになるだろう。 しかし最低でも、あともう1つだけチェックしなければ、不忍池でデートをすると破局するというジンクスが本当かどうか確かめることはできないのだが、それはどれだろうか。 次の行を読む前に一分くらい考えてみていただけたら幸いだ。

実は、これは有名な論理の問題のひとつで多くの人が間違える典型的な例なのだ。 これを読んでいるあなたは、その答えが3番ではなく最後の4番がだということにすぐに気がついただろうか。

上記の二つは、論理的に考え方にとってとても初歩的なことで、誰か個人の意見ではなく、親が泣こうが子が泣こうが変化しない絶対的な事実だ。こういう論理の性質を知ることはとても大切だが、しかし、日本ではこのことを学ぶ機会はとても少ない。




一方タイ人は心の世界を上手に扱うことに関してはとても高いレベルを持っている。 相手の意見をすばやく汲み取り、相手が安らぎを感じるような対応をすばやくとることが出来る。 また相手に不愉快さを一切感じさせることなく相手を自分の思ったとおりに動かすことも非常に得意だ。 更に考え方が違う人たちとスムーズにコミュニケーションをとることも非常に得意である。 それら点に関して日本人は、とてもではないが得意だとはいえない不器用さを持っている。 その点、多くのタイ人は日本人をバカだと断定している。




論理の世界と心の世界は、全く正反対の世界だが、実は表裏一体だ。 近い場所にあるが、これらを混同してはならない。

多くの人は、本当に論理的に考えなければいけない場面で心の世界を持ち出し、本当に心について考えなければいけない場面で、論理の世界を持ち出す。 それは極めて有害だ。

  


Posted by ピイカウホア at 15:50Comments(2)

2008年10月24日

女語学

4:53 AM 10/23/2008

で、サイアムパラゴンの本屋でブラブラしていたら、日本語で書かれたタイ語の本が結構置いてあることに気がついた。 タイ語で苦労している日本人は多くて売れ筋なんだろうか。 かなりの種類が置いてあった。

その中に「間違いだらけのタイ語」というようなタイトルの本があることに気がついた。 元々、英語に関してはこういう本は本当にたくさん売られていたけど、タイ語に関する間違いだらけ本はあまりなかったように思う。 しかし、昨今のタイ語ブームにのってこういうタイトルの本が徐々に多くなってきた様な気がする。 手にとって読んでみた。

多くは僕が既に気がついていることばかりで特に読むべき点は無いように思った。 で、それ以上に、読んでいてなんというか、不条理感というか、不愉快になってきた。 何故だろうか。

書いてあることが細かいのだ。 実際にコミュニケーションをとる上で事実上まったく問題とならないような細かな間違いを事細かに修正している。 その細かさが腹立たしかった。 その間違いにはタイ人もよくやるような間違いも多く含まれていた。 もちろんタイ語で公式な文章を書くときにはそういう細かな間違いが問題になってくるだろうが、しかし、間違いがない確実なコミュニケーションをとる上で、そんな文法上の細かな間違いは問題にならない。 そんな細かなことよりももっと大きくて重要なことがある筈なのだ。 その細かさの背後に、日本の受験勉強の弊害の臭いがした。

前、在タイ日本大使館に行った時、そういう受験勉強の弊害の様な日本人タイ語話者を見たことがある。 僕は断言してよいと思うのだが、この人たち、実に流暢なタイ語を話すのだが、実はあまり通じてないのだ。 タイ人独特なツーカーの言葉にならないコミュニケーションの方法を軽視しすぎている。



こうやって「間違いだらけ本」に書いてあることをいっこいっこ読んでみれば、確かに僕が気がついていないことも書いてあったりする。 それはそれで実は読んでいて面白かったりもするのだが、僕のいいたいことは、「じゃぁ間違いだらけ本に書いてあることを全部丸暗記したらタイ語が上達するのか」ということだ。 答えは明らかに「否」なのだ。

大切なのは知識量ではなく「常識感覚」を磨くことだ。 要は、テレビ番組「知ってるつもり?」の様なものだ。 「○○の時こうするのが普通か?」「○○のとき△△△するのは普通か?」というような、一般常識感覚である。 これはその人自身がそれまでに経験してきたことに対する統計力と言い換えられるように思う。 この感覚こそが、言葉の正しさに対する感覚そのものではないか、と僕は思う。 語学の勉強とは、正にこの「常識感覚」を磨くことに他ならない。

「間違いだらけ本」というのは、ある人がその人の「常識感覚」を使って知りえた知識ダラダラと書いているだけではないか、と僕は思う。 その「常識感覚」をまだ持っていない人がそういう知識を片っ端から覚えていっても、身につかないし、使いこなせない。これは例えば、男の子が雑誌に書いてある「デートの時にしてはいけない100選」を徹底的に丸暗記してデートに挑んでいるようなものではないか、と思う。 相手にしてみれば実に「興ざめ」なのだ。 これは語学も同じである。

以前ラオスに行った時日本語がとても上手な人に会ったことがあった。 その人は僕に「今日は暑いですね」といったが、僕はこころひそかに「おめぇ!ラオスっつーのはな!毎日あちーんだ!」と叫びたい衝動に駆られた。 この様に、紋切り型で対応する人というのは、実に興ざめなのである。 これが僕が大使館であった日本人のタイ語の達人と同じである。 実に興ざめなのである。 語学というのは多少ヘタクソでも心がこもっていたほうが100倍喜ばれると僕は思う。

その時々の相手の雰囲気を読んで行動を切り替える敏速さを身につける。 ネイティブであれば誰もが無意識にやっていることではあるが、このことの大切さは、いくら強調してもしすぎるということは無いと思う。



で、このことを考えるとき、英語を勉強している時代に出会った英語が得意な女性達のことを思い出す。 僕は英語を勉強していた時期が長いのだが、そういう英語を勉強していた時代、苦労している僕に、語学が得意な女の子達がよってたかって「あんなことも知らないの?そんなことも知らないの?」的に知識量をつかって僕をいじめにかかることは多かった。

女の子が語学が上手なのは当たり前なのだ。 これは僕は「頭の構造が違う」としかいいようがないと思う。 女性は語学をマスターするのが異様に速い。 生まれつき語学の天才だと思う。 そんなことは無いと思われるだろうか。 女性だって普通だ、と思われる人も、一度くらいは男性の語学の上達の遅さでイライラしたことは無いだろうか。 男性というのは言葉を覚えるのが非常に遅いものだ。

で、女性によっては、自分の語学の上達の速さに酔いしれてしまう。 女性の語学の上達が速いのは当たり前なのだが、そのことに気がつかず、自分が知っている知識の量をひたすら自慢したがる。 で、自尊心を満たすために、僕の様なものを知らない語学初学者をいびり始めるのだ。 で、僕は漠然と、こういう「間違いだらけ本」というのがこういう女性たちによって書かれているような気がしている。 自分の知識をひたすらダラダラと書き連ねていくのだ。

本来であればそこに「抽象化」という作業が加わらなければならない。 そうやって得た知識のデータベースを俯瞰することでそこに1つの法則を探し出す。 法則が見つかればそれ以降であう未知な経験に対しても対処することができる。 そういう抽象化はとても大切なことなのだが、彼女たちの本には、その抽象化がないのだ。 抽象化がないデータは実践であまり役に立たない。

特に外国から孤立した日本に住む日本人は、外国語を話す経験が乏しい為、目先の情報に惑わされやすくなりがちだ。 僕はこういう「間違いだらけ本」というのは、初学者にとって、とても有害だと思う。 こういう本は、それを全て覚えなければ上達する事は出来ないというような錯覚をもたらし、無用な努力を費やさせてしまう。 実際にはもっと別なところに大切なことがあるのだ。 これらの本は、初学者にとても長い貴重な時間を浪費させてしまう危険を持っている。




多分語学というのは、勉強する以前の問題として、語学を学ぶ者の心構えみたいなものが重要なんじゃないかという気がしている。 僕はドイツ語とかロシア語とかあちらこちらの言語に手を出しているほうだと思うけど、どの本も最初の方に書いてあることは変らない。 「出来るだけ英語じゃなくて相手の母国語で話したほうが喜ばれる」とか「できるだけネイティブと話せ」とか。 これが滑稽なまでに同じなのだ。

ドイツ語の本には「ドイツ語上達のドイツ人と話すことだ!」ロシア語の本には「ロシア語上達の必勝法はロシア人と話すことだ!」広東語には「広東語上達の必勝法は香港人と話すことだ!」とか、それぞれの先生がそれぞれの経験からトクトクとそういうようなことを書いているが、要するにこれは同じことである。

つまり、日本人というのは特殊なのだ。 海に囲まれた島国である日本では外国語を話すということは極めて得意な経験で、他の陸続きの国の人と比較すると、外国語を話すということ自体にとても不慣れなのではないか、というような気がする。

日本人にとっては、まず外国語を話すということはどういうことなのかを知ることが何よりも大切なのではないだろうか。 禅の国、日本人にとって、そこにはきっと「語学道」というものがあるのではないか、と僕は思う。 ところで、語学の上達の道筋は正に禅の教えで説かれている「牛を探す話」と全く似ていると僕は思うのだけど、どう思われるだろうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3

日本人は語学が苦手だといわれて久しいが、この「語学道」の存在に気がつき、それを極めようと日々精進すれば、いつか「日本人は語学が得意だ」といわれる日も来るのではないかという気がする。

  


Posted by ピイカウホア at 04:56Comments(11)

2008年10月24日

ラオス語の辞書

3:55 AM 10/23/2008

この間、仕事がひと段落ついたのでサイアムパラゴンにある紀伊国屋に行った。 紀伊国屋は本屋が少ないタイのバンコクにあってぶっちゃけ最大規模と断言してもいい店舗面積と壮絶な品揃えで、歩いていて結構飽きない。 ただタイの紀伊国屋は日本の書籍はあまり置いてなくてタイの本とかなりの品揃えのマンガと後は英語の本だ。 面白いなと思うのは中国語の本がたくさんそろえてあることだ。 タイには結構中国人がいっぱい居る。 この人たちは普通の中国人じゃなくて華僑の末裔だったりするわけで多くの人はタイ語しか話さないけど、結構タイ語がヘタクソだったりしゃべれなかったりする人もいるらしい。 このタイ語が話せない華僑の多くは超お金持ちであるらしい。 またタイの中国語が話せない華僑の間で中国語を勉強するのがブームになっている、という話も聞いたことがある。 で、この人たちをターゲットにしているのかも知れない。

で、歩いていたら、タイ語の地球の歩き方みたいな旅行案内本コーナーに「ラオス」と書いてあるのが目に留まった。 これは結構意外だった。 何故なのか説明せねばなるまい。

僕はタイに住んでいるが、かつてはイサーンと呼ばれるタイの東北地方に住んでいた。 ここはいちおうタイなのだが、日本の東北地方と同じ様に、ちょっとなまったタイ語を話していたり、まったく違った風習に従って生活していたりする。 一瞬外国に来たような錯覚すら覚える。 僕は最初タイ語を勉強してこの地方にやってきて、何故自分のタイ語が通じないのか非常に悩んだものだったが、要するにこの地方の人はタイ語を話さないのだ。 この人たちにとってタイ語というのは日本人の英語の様なもので大きくなってから覚える第二言語で、普段はイサーン語と呼ばれるタイ語の方言を話す。 僕はこの言葉を覚えようと悪戦苦闘を始めて随分たったが、未だに話せない。 この言葉には文字がないし、田舎言葉とされているので恥ずかしがってあまり人前で話してくれないからだ。

僕がイサーン語を勉強し始めたとき、あちこちで本を探したものだった。だけど、ほとんど文章がみつからない。日本語もないし英語もほとんどみつからない。 それどころか、イサーン語を勉強しているというと、まるで恥ずかしいことでもしているように言われたりする。 そういうことがあるので、無意識の内に「タイ語でラオス語の本を探すのは愚の骨頂」と感じていた。 タイ語のラオス語学の本なんて探すだけムダと感じて探したことがなかった。

だから、タイ語でラオス旅行の案内本が発売されているというのは、充分意外だった。 手にとって読んでみた。 といっても僕はタイ語を読むのがとても遅いので写真を眺めてみたわけだが、ラオス国内を旅行しているどこをどう見ても中華系タイ人のおばさんがニコニコしながらラオス料理を食べている写真がたくさんのっていた。 これがまた僕にはとても意外だった。

実は、イサーン地方というのは今でこそタイということになっているけど、100年ちょっと前までタイではなくラオス(ビエンチャン)だったのだそうだ。 100年ほど前に大きな戦争があってラオス(ビエンチャン)から属国として取られてしまった地域がイサーンで、要するにこの辺は文化的にはラオスなのだ。 タイ東北弁とされているイサーン語も、実はタイ語とはかなり大きな文法的・単語的な違いがあって、要するに別の言葉だ。 要するにイサーン語というのは実はタイ語の方言なんかじゃなくて、ラオス語なのだ。 それに彼らもイサーン語のことをイサーン語とは呼ばないでラオス語と呼ぶ。

僕はニコニコ顔の中華系タイ人のおばさんの写真をみたとき、わざわざそんなはるばるラオスまで行かなくたってバスで4~5時間走れば同じ料理が食べられるんだが、と思った。キミたちがバカにしてこき使っている従業員こそがラオス人なんだが、とも思った。 でもこの人たちはきっとそのことを知らないのだ。

ま、変な本だなぁとは思ったが、とはいえ「あ、タイ語のラオスの本って、あるんじゃん」と新鮮な感動を覚えたのだ。

ということは、タイ語ラオス語辞書売っているかも、という淡い期待を持った。 というのも、この間、ラオスに行ったとき、ラオス英語辞書を買ってがっかりしたことがあったからだ。 もちろん使えるのだが、これがとても使いづらい。僕は既にタイ語が話せるうえ、タイ語とラオス語には共通の言い回しがたくさんあるので「タイ語のアレはラオス語でなんていうのか」という風な引きかたをしたいのだが、しかし英語とラオス語には共通の言い回しがとても少なく、もちろんタイ語と英語の間にも少ないので、分厚い手袋をつけてビーズのアクセサリを作っているような、実にまどろっこしい感覚がある。

で、インフォメーションに行って「ラオス語の辞書ありますか?」と聞いてみたらあっさり「この本屋には英語の辞書しかありません」と冷たくあしらわれた。 明らかにバカにした言い方だった。 一応英語の辞書どこか聞いて見に行ったら、英語どころか世界各国の辞書が置いてあった。 「この本屋にはスペイン語の辞書もおいてあるんですよ、知らなかったんですか?」って嫌味を言いに行こうと思ったが止めた。 要するに、タイ人はラオス人が嫌いなのだ。

これだけ辞書の種類があればきっとラオス語タイ語の辞書もあるだろうと思ってみてみた。 タイ語カンボジア語辞書はあった。 タイ語ミャンマー語の辞書もあった。 タイ語マレーシヤ語の辞書すらあった。 ところが、いくらさがしてもラオス語タイ語の辞書だけ、みつからないのだ。 多分だが、これは政治的な理由なんだと思う。 しかしいくら敵国だったとしても学術的な研究があったってバチはあたらないだろう、とも思った。 でも無いのだ。

さっきの旅行本コーナーもよくよく見てみれば、ほとんど日本旅行の本で埋まっていた。 そんななかで一冊だけラオスについて書かれている本があるような感じだった。 タイ語のラオス本があっただけでも奇跡的だったのだと思った。


でも、もしラオス語・タイ語辞書があれば理想的だ。 ないかなぁ...。 自分で作るしか無いのだろうか。
  


Posted by ピイカウホア at 04:47Comments(6)

2008年10月22日

頭の悪いタイ人

いきなりだけど、僕にウソをつくのは非常に難しい。 多くの人がそう思っているらしいし、実際難しいんだと思う。 何でかというと、僕は妙に小ざかしく頭が回るからだ。 適当に言いあしらったり都合の悪いことを隠したりすると、妙に鼻が利くので、あっという間にウソを見つけ出してしまう。 しかもベラベラとよくしゃべるので、あっという間にみんなにそれを知らしめてしまう。 実に扱いづらい男だと自分でも思う。

しかし 「何でそんなこともわかってくれるんだ」とか「そこまで自分の気持ちをわかってくれたことはない」とか、そういった最大限の賛辞を僕に送ってくれる人もたくさんいる。 そういう人は、いい人である。

こうも言える。 何かを隠している人・何か別な本心を持っている人にとっては、僕は悪い人なのではないか。 都合が悪いのではないか。



で、自分で言うのもなんだけど僕はどうもタイ人の常識や考え方を普通の日本人よりもずっと詳しくよく知っているらしい。 僕はタイに来てまだ3年ちょっと ... その内1年は日本で過ごしたので、実質2年ちょっとしかタイで過ごしていない。 だけど、タイ人の考え方をよく理解していると思う。

タイ人の考え方って、日本人が思っているほど変ではない。 タイ人っていうのは、知れば知るほど結構普通の考え方をしている。 ただ住んでいる場所や状況が日本と違うだけだ。 でも、99%の日本人がタイ人が思っていることをちゃんとわかっていない。 何でか。

タイ人は、日本人と比べると「パーソナルスキル」が桁違いに高い人が多いからだと思う。

パーソナルスキルという言葉をご存知だろうか。 色々な定義があるが、自分と考え方が違う人とコミュニケーションをとる技術ともいえる。 タイ人というのは、陸続きで多くの国に囲まれ、常に外国人とコミュニケーションをとっている。 更に、同じタイ人といえども外国人といえるくらい多様な民族がいる。 文化も習慣も言葉も違う人たちが一緒の国に住んでいる。 更には日本よりもずっと多くのヨーロッパ人が暮らしているので日常的に多くのヨーロッパ人とも会話する。 このように日常的に外国人と接することによって、元々パーソナルスキルが非常に高い人が多いのである。

そんなタイ人と比べて、海に囲まれ日本人だけしか知らない日本人というのは、まるで無菌室で育った赤ん坊の様なものだ。 タイ人にとって日本人を思い通りに動かすのは赤子の手をひねるより簡単なのである。

僕はどうやら普通の日本人よりずっとタイ語が上手いらしい。 僕の顔は誰がどう見ても絶対に間違えないような日本人の顔をしているらしく、多くのタイ人が僕を日本人だと期待して話しかけてくる。 ところが、僕のタイ語を一言聞くと、多くのタイ人は青ざめて逃げていく。


これくらいタイ語が上手いとあまりタイ人から歓迎されないのかもしれない。 だが、そんな僕を普通のタイ人として気にせずに話しかけてくる人もいる。 こういう人たちは、極めて「タイ人らしく」ない。 いわゆる日本人が思っている適当でチャランポランなタイ人ではない。 実に普通だ。 下手すると日本人と話しているのとほとんど変わらないのではないか、と感じることすらある。 普通のタイ人は結構厳しい。 普通のタイ人は結構ニコニコしない。 といいうか、こっちの方が普通の一般市民のタイ人なんだと思う。

日本人に近づきたがるタイ人というのは、独特だと僕は思う。 確かに、日本人に近づきたがるようなタイ人という人種が存在する。 これは確実に普通のタイ人とは絶対に違う。 しかし、それは騙しているのとも違う、本心を隠しているのとも違う、微妙な蜜月関係なのだ。 本心は隠している、 もっとも彼らが本心を日本人に打ち明けたところで、日本人には理解できないので、最初からあきらめているのである。 だからといって、それを責めたりもしない。 自分のことはわかってもらえていないそのままで、その日本人を愛すことができる懐の大きさがある。 このバランス感覚こそが僕には、実にタイ人らしく見える。

そういう大局的な見方をしているタイ人の視点に、日本人はどうやっても到達できない。 何を考えているのか気がつけない。 タイ人がいくら説明しても言うところを納得できない日本人。 時にはタイ人をバカだノロマだと罵る日本人。 実はわかっていないのは日本人なのだが、それを責めずに「そうタイ人はバカなのだ」と日本人の意見を否定せず、あくまでも日本人の立場に立とうとする優しいタイ人。 それでありながら、鶏舎にニワトリを追い込むように、優しく人をあつかうしなやかさがタイ人にはある。 それに気がつかない日本人。 日本人とは、正に子供のようだと僕は思う。

タイ語が話せる日本人は結構居る。 しかし、タイ人の考え方を理解している人はあまりいない。

タイ語に「プーッタイルールアン พูดไทยรู้เรื่อง」っていう言いかたがある。 ルールアンというのは、状況がきちんと飲み込めている状態を表す言い方で、つまりはタイ語がわかっているという意味だ。 ここで「プーッタイペン พูดไทยเป็น=タイ語が話せる」 とはいわないのだ。 つまりタイ語が話せるという能力と、きちんと状況が飲み込めているかどうか、をきちんと言い分けているのだ。 というわけで、タイ語が話せるけど訳がわかってない、という日本人は、ムチャムチャ多いと思う。

タイ人というのは、そういう風な見方をしているものだ。

ところで、実は日本人がタイ人の考え方を理解してしまうと、むしろ都合が悪いと思っているタイ人がいる。 これもまた事実なのだ。 これが僕に話しかけると青ざめて逃げていくタイ人だ。


再度いうけど、僕を騙すのは非常に難しい。 どういう巧妙なウソを付いても、その人の言動から微妙な矛盾点を嗅ぎ取ってウソを見抜いてしまう。 (だから僕は本心を隠したがる日本人には好かれないわけだが。)


で、僕が複雑な気持ちになるのはここだ。 日本人がこころのそこから信じているタイ人が日本人に対して付いているウソが僕には見抜けてしまうのだ。 このとき、タイ人が何故そういうウソを付くのかも、日本人をどうやって騙したのかも、これまで、どういうウソをついてきたのかも全部僕には見抜けてしまう。 そして更に僕を複雑な気持ちにするのは、そのウソを暴露するとそのタイ人はおろか、その日本人までもが不幸になってしまう、という事実だ。 日本人は騙されて幸せなのだ。 この事実を目の当たりにする時、実に実に複雑な気持ちになる。

オレは違う、アタイも違う、と思われるだろうか。 ここでブログを書いている人の90%ぐらいは、この矛盾点に気がついて無いんじゃないかと思う。 (この点について、TLSの社長であるポンパン先生こそが冷酷に現実を認識できる数少ない日本人の1人なのだと僕は思う。 )

何故こういうことになるんだろうか。


こういう風にタイ人が考えていることを、ひとつひとつ日本人がわかる日本語で解き明かしていけたら、多少面白いブログになるだろうか。 いや、結構、読みたくない耳の痛いブログになるはずだ。 書かないほうがいいのかもしれない。

しかし、実は僕は日本人と話していても、かなり強い違和感を感じるようになってしまった。 日本人が言う色々な意見が、実は勘違いなのだ、ということを何とかしてわからせたい。 説明したくてしかたが無いのである。 それは誰もが理解できることのはずだ。 難しいことではない。 しかし理解できないのだ。 何故か。 何故ならば要するに理解したくないからだ。 理解できないのは「耳が痛い」からなのだ。

このブログはそういう耳の痛いブログになるだろう。
  


Posted by ピイカウホア at 06:56Comments(8)

2008年10月22日

ニュース・タイ航空、チェンマイ―ウドンタニ線開設 について

タイ航空、チェンマイ―ウドンタニ線開設
http://www.newsclip.be/news/20081021_021028.html

このニュースは若干解説が必要な気がする。実はウドン・チェンマイ線は、以前、たしかノックエアーだったか、が一社だけ超ボロい今にも落っこちそうな古いプロペラ機を週三回だけ飛ばしていた。しかし、ノックエアーとエアエイジアは、昨今の原油高に加え、反タクシン派が政府でムチャやっている影響ですっかり経営困難に陥ってしまって飛行機の運航を取りやめてしまったのだ。 だから恐らくウドン・チェンマイ線も同時に取りやめになってしまったんだと思う。

タイ国内は普通であれば、バスが網の目の用に発達しているので飛行機なんか使わなくてもどこでも安い値段で迅速に移動できるけど、ウドン・チェンマイ間だけは大きな山があるのでちょっと特殊なのだ。 とても時間が掛かるし、なんと言っても山越えは疲れる。というわけで、チェンマイウドンタニ間の飛行機は、結構重要だった。重要なのに、飛行機が飛んでいないという状況が長らく続いていたんじゃないかと思う。

だからこそ、今現在、唯一運行しているタイ航空がこのチェンマイーウドンタニ線を始めたというのは、ニュースになるんだと思う。

今の国内の航空状況がメタメタになっている現状の多くは反タクシン勢力のデモの影響だ。 でも一応タクシン派が悪者ということになっているので、あまり「反タクシン勢力のせいでこんなに困っているんだ」ということを大声で報道できない大人の事情があるんだと思う。

僕が知っている限り、今、反タクシン勢力を応援している人って、結構少ない。デモは実はタイではモブ=暴動って呼ばれているし、デモの影響で商売上がったりになっている人がたくさん居て、みんな迷惑顔だ。でもこの黄色いシャツを着た反タクシン勢力を応援している人って、この国の権力者が多いので、あまり大きな声で反対を唱えられず、みんな苦々しい顔で眺めてる。

でも、多分僕が住んでいるマンションの住民の99%は、反タクシン派だと思う。 黄色いシャツ着ている人が本当に多い。この人たちの働きがなければ、僕はこの家賃3万円・プールフィットネス付きという、豪華格安マンションに住むことができない。僕はタクシン派を名乗ってはばからないが、このマンションは好きだ。 実に困ったものである。

しかしである。このマンションの従業員の99%はタクシン派なので、「タクシン派などでていけ」と声高に叫んでしまうと、このマンションの従業員は1人もいなくなってしまう。 つまり、黄色いシャツを着た反タクシン派の住民たちが苦々しい顔でトイレ掃除をするハメになってしまう。 追い出すに追い出せないのである。

この国の事情というのは、複雑だ。
  


Posted by ピイカウホア at 04:28Comments(2)

2008年10月22日

塩で食べる

同じ単語でも、言語が違うと随分ちがった意味になってしまうことがよくありますが、 最近知った中で面白いなと思った言葉は「塩」です。

タイ語で「塩でご飯を食べる」っていう言い方があるんだそうです。 最初なんのことかさっぱりわからなかったんですが、聞けば塩でご飯を食べるというのは、ジリ貧の典型なんだそうです。 塩といえば安いものの代名詞であり、お金がないのでおかずを買えない、だから仕方なく塩をかけてご飯を食べる、という意味なんだそうです。

日本では塩といえば「清浄」のイメージです。相撲を取る時土俵にまいたり、商売をするとき店先に盛ったりします。 また同時に貴重品でもあり、昔は塩の取引で商売をした人も居ました。 WIKIで見てみると、日本では塩は今でも貴重品なのだそうで自給率は立ったの15%なんだそうです。

で、タイの塩なのですが、これが実にありふれた存在なのです。 この話を聞いたとき、思い出したのはウドンタニーに住んでいたときに、近所に塩田があったことです。 住んでいたところの近所に見渡す限りの広大な空き地があったんですが、そこで塩がいくらでも取れるっていうんです。 日本では、海から水を引いて乾かしたり煮詰めたり時間をかけてようやっと塩を手に入れるわけですが、この国は塩が地面から沸いて出てくるのか、と非常に感銘を受けたことがあります。 というわけで、塩というのはタイでは安く手に入れられるものの代名詞になんだそうです。

値段ですが、タイは物価が安く、それにもまして食料費が安い国ですが、塩の値段は更にもまして安いです。 そこらのスーパーで300グラム20円ぐらいで売ってます。 ムチャムチャ安いです。 大量買いすればもっと安くなると思います。



話は変わってカウニャオの話です。 僕はどうもカウニャオが苦手で食べると漠然とおなかが痛くなることが多かったんです。 もち米はもち米なんですが、硬目に炊いてあるので、微妙に胃がもたれるのです。 それで食べづらいなと思っていたのです。

で、おととい、街の屋台の立ち食い焼き鳥屋でカウニャオとサイクロークを食べていたんですが、その日はおなかが空いていたので、カウニャオを二人前頼んだのです。 しかし食べている途中でおなかがいっぱいになってしまい、捨てちゃうのももったいないのでカバンに入れて持って帰ることにしました。

夜中、おなかが減って何か食べようと思ったとき、あ、そういえばカウニャオがあったなと思ったんです。 でも、おかずないしなぁ...と思っていたんですが、ふと、醤油をかけて食べたらどうなるかと思ったんです。



やってみた結果...


... 「ウマい!」 (^-^;;;


予想をはるかに上回るウマさでした。 というか、味は正に安部川餅でした。 海苔を巻いて食べたら、多分そのまま安倍川餅だったと思います。 もち米なので当たり前といえば当たり前なんですが、いつもいつもピンチを救ってくれる謎の月光仮面の正体が実はうちのおばあちゃんだったというぐらいの意外性を持った、実に親しみのある味でした。


で、折角なので、貧乏食の代表ともいえるこのカウニャオを、この貧乏食品の代表である塩で食べてみようと思い、実際やってみました。


で、その結果は...


「ウマい! というか、これ、赤飯じゃん。」


豆が入ってないので厳密には赤飯じゃないですが、味や食感・香りはまったく赤飯そのものでした。 ま、赤飯ももち米なので当たり前といえば、実にあたりまえなんですが...。



というわけで、当初、ものめずらしさで一杯だったイサーン料理が、なんかいきなり極親しい、何の珍しさもない当たり前なものに変わってしまい、興味深いというか、実にごく当たり前なつまらない結果になってしまったわけです。


これからはおなかが減ったら、カウニャオに塩。 これで全く日本に居る時と同じ味が楽しめます。
お金にゆとりがあれば、醤油を添加。 更に 海苔で巻きます。

時間にゆとりがあれば、杵と臼を自作してついてもいいと思います。
カウニャオは保存が利くので一旦ついてしまえば数ヶ月は持つでしょう。

あるいはタイでも実に簡単に入手できる大豆を混ぜて炊けばそのまま赤飯にもなります。


ここに黄な粉があれば完璧なんですが...。
大豆は売ってるんですが、粉に挽いてある物は無いので、自作する必要があるのです。
ここは今後の課題とすることにします。


  


Posted by ピイカウホア at 03:19Comments(4)

2008年10月19日

嫌われる方が悪い

今僕は家でネットをする環境がない。 一応部屋にWIFIが来るようになっているのだけど、電波が弱くてパソコン机のあるところまで電波が届かない。 今日、24階の部屋から6階にあるロビーまで下りてくれば、ネットにつながることがわかった。

でも、あまりちゃんとした家から持ち出せるPCがないので、長い文章を書くことは難しい。 だから今回はコネタである。

で、今日ニュースでどこかの事業家が裁判沙汰になったので裁判に出席しようとしたらいきがけ殺し屋に射殺されてしまったという話を聞いた。 なんというか、この話を聞いてあまり法治がよくないタイのバンコクのことを思ったりもしたけど、それ以上に、やっぱりなんと言うか、タイというのは「怒らせたら負け」なんだなぁと言うようなことを思った。

政治の話を見ていても同じことを思う。 どんなによい政治をやってみんなから慕われていても、ある特定のグループから嫌われると責任を問われることがある。 たとえば、そのグループがワーワー騒いで問題を起こすと、それがどんなに不条理で飲めない条件を要求していても、その嫌われた政治家が責任を取って辞任する事態に追い込まれることが多いみたいだ。

実際に仕事をしていても、同じことを思う。 相手がどんなに不条理なことでゴネていても、それを頭ごなしに怒鳴りつけたりしたら、アウトなのだ。 赤子をあやすように相手をなだめて怒りを納めるようにしなければいけない。 ある意味、理屈を言わなくていいので楽ではあるが、正論でも絶対納得しないのである意味面倒でもある。


日本人がタイで仕事をすると、まるで、高校スポーツ部の鬼監督の様になってしまって、ひたすら大声で怒鳴り散らすという状況に陥りやすい。 実際僕もしょっちゅうなる。 でも、ここでグッと怒りを抑えて、さも子供をあやすように相手をなだめて、言うことを聞かせるようにするのは、結構大切なスキルのような気がする。

ま、それでも、最終的にどうしても言うことを聞いてくれなかったら、クビにしたり裁判でやっつけたりしないといけないわけだけど、そうなる前に、その人の心を尊重する言葉があるかないかで、後の処理がずいぶん違うような気がする。

僕もしょっちゅう怒ってしまうが、ここをグッとこらえて、相手を尊重するような言葉をかけたりすると、とたんに相手の態度が軟化したりすることもある。

このスキルは一瞬「何で俺がそんなヤワなヤツの気をつかわなきゃならんのだ」という気もする。 しかし、このスキルを極めると、どんなに相手にとって不条理な条件でもうまく飲ませてしまうという、女殺しのジゴロのようなことをすることもユメではない。 ある意味、 究極の営業マンである。

しかし、視点を変えるとこうもいえる。 まだビジネスが小規模なうちはいいけど、これからビジネスがだんだん大規模になっていくと、自分がいかに正しくても、相手からねたまれたり恨まれたりすることも多くなるんではないだろうか。 ここで、鬼監督のように怒鳴り散らしてしまうと きっと、この射殺された実業家のようになってしまうのではないか、というような気がする。

人間、心の修行が大切である。

なんちって。

  


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2008年10月15日

ヤム屋周辺の出来事

今日あったことは書いておこうと思う。 今日は色々な出来事があった日でそれぞれとても印象深く全てを全部書き尽くすことはちょっと難しい。 でも、とにかくかける範囲で書こうと思う。

今日は、ヘットマンさんとミロさんという最近仲良くしている人たちの会合があった。 ここで起こった事は非常にヘビーな出来事だった。 文章にすればそれだけでひとつの短い短編小説になるくらい中味の濃い出来事だった。

その後色々あって、その後更にもうひともんちゃくあったあと、僕はひとりでアソーク駅の前を歩いていた。かなりお酒を飲んでいたので、行きつけのおいしいヤム(辛いタイサラダ)屋さんで食事をしようと思った。 また、このヤム屋さんの前にはテーメーという有名な援助交際喫茶がある。 このヤム屋さんの周りは、日本人や日本人目当てに売春している女や、その他の外国人でごった返しており非常ににぎやかだ。

しばらくまえ、バンコクのこういう繁華街に来て非常に嫌な思いをしたので、もうこういう繁華街には遊びにいきまいと思っていたのだけど、まぁ来てみるといつも人がいっぱいいて、暖かい雰囲気があるので、まぁ悪くないかなと思った。

歩いていたら「マッサージいかがですか」とかいって慣れなれしく付きまとう人が居る。 僕は普段そういう人と会うとなるべく無視する。 でもあまりしつこいので「いらん!」といって歩き去ろうとしたら(こういう時はっきりしたタイ語でぶしつけに断るとほとんどの人はすぐに去る)後ろから「あ!この人覚えてるぞ!」と声が聞こえた。 ふと見たら、以前はなしたことがあるオカマの人だった。 この人は以前僕がそのヤム屋のとなりのソムタム(タイの激辛サラダ)屋で食べていたとき、「何でお前はソムタムを食えるんだ!」と驚いて話しかけてきた人だった。 その後僕がウドンタニーに居たことを話したり、実はこの人もウドンタニーの人だという話をしたことがあったりして、とても人柄のよい人で僕もよく覚えていた。 僕はパッとにこやかになった。 このマッサージの女の子は、このオカマの人と友達だったらしかった。 生活は大変なんだろうなと思った。 だけど元気そうでなんとなく嬉しかった。

その後、そのヤム屋さんでヤムを食べた。 ここのヤムは非常に美味い。 バンコクの店はコストダウンのせいか乾燥唐辛子を使っていることが多いのだけど、ここは屋台だけど生の唐辛子をふんだんに使っておりとても味が濃いおいしいヤムを食べさせてくれる。 とてもおいしかった。

その後、なんかコーラが飲みたくなった。その辺りの屋台で買うと高いので先にある雑貨店まで行くことにした。 果たして入手して戻ってテーメーの周囲をうろつこうと思った。(別に売春婦に興味があるわけではないのだ。ただこの辺りをウロウロしていると、日本では知り合わないような意外な日本人と知り合う機会がある。これはこれで結構面白い。特に僕はタイ語が話せるので重宝がられてうまくアドバンテージを取れるので有利でもある。)

歩いていたら路上屋台バーの前で知った顔に話しかけられたので座った。 ここで売春している女のひとりだ。 前話したことがある。 やっぱりウドンタニーの人で色々話し込んだことがあった。(その後、自分を買えとうるさくせがまれたのだけど、興味ないので無理やりタクシーに突っ込んで家に送り返したことがあった。)

しばらく話していたら隣になかなかイケメンの男の子が座っていることに気づいた。 日本人だった。 なんとなく話したら、若い子でとても性格のよい人だということがわかった。 僕はいつも思うのだけど、今の日本って厳しすぎる。 この子もゆとり教育世代でのんびりと育ったタイプなのだと思うけど、いざ社会に出てみればかつて体験したことも無いような厳しい競争社会で、どこにも居場所がなく悩んでしまっているような感じだった。

話せば、もうタイに一年居るのだけどこのまま日本に帰って仕事をするのか、このままタイで仕事をするのか、悩んでしまっている感じだった。 このままだと今の就職氷河期と言われた日本に戻って苦労することになる。 それとも困難だがまだチャンスが残っているタイで頑張るのか。 普通僕はこういうなまっちょろい話をする子は相手にしないんだけど、この子は目がちょっと印象的だった。 真剣に悩んでいることが見えた。 僕が話すことを真剣にきいて、僕が話すアドバイスを真剣に実行しようとしているのが見て取れた。ためしにタイ語をちょっと教えてみたら飲み込みも早く、見込みがあるように思えた。

わからないけど僕は今、タイに居る真剣な日本人の友達が欲しい。 仕事をするにはどうしても日本人の横のつながりが必要だということを感じていた。(というのも、タイで仕事をするとき、方法は3つあると思うからだ。 ひとつは中国人と仕事をする事で、もうひとつはタイ人と仕事をすることだ。しかし、このふたつには重大な欠点がある。 中国人は絶対に仲間しか儲からないような仕事の仕方をするので、日本人とは相容れないからだ。 タイ人とビジネスをするのもあまりよいアイデアではない。 仕事の仕方がルーズすぎてすぐ失敗してしまうからだ。 最後のひとつは、日系企業と仕事をする事だ。 日本人はとても勤勉でこういう場面でもとても仕事がし易い。 日本人としてはこれが一番妥当でなおかつ一番儲かる方法でもある。) 日本の心は人助けである。 僕もタイでは色々と苦労したけど、この経験をこうやって人の役に立てて行けば人脈を作っていくことが出来る。

それに彼の目はちょっと印象的だった。

で、彼と延々と日本語で話をしていた。 彼にタイ語を教えたらちょっと上達した。 アパートの探し方やタイ語の勉強の仕方を教えてあげた。 ま彼にも多分にもれずタイ人の彼女が居た。 彼女に色々言って明日アパート探すの手伝ってくれないか、と頼んでおいた。 色々な雑談をしながら夜は更けた。

彼はとりあえず現時点で語学がダメダメだった。 ただ、それは話をしている感じだと今まで回りに出来る人が居なかったからに見えた。 実際教えてみると覚えは早かったので、意外といけそうだと僕には思えた。 僕は今までいろいろな人に教えたことがあるけど、いくら教えても覚えない人も居る。 そういう経験から言って、かなりいけていると思えた。 タイ語が出来るようになれば、タイで仕事をするのは難しくない。

でその話をしていたら、例の知った顔の子が早口で、その男の子の彼女と「こいつは英語がしゃべれないから仕事は無理だ」とかそういうようなことを言い始めた。 僕もタイ語は完璧じゃないので、全部は聞き取れないけど、あまりいい事を言っていないことはわかった。

で、頭にきたので言い返した。「こいつは今は話せないかもしれないが俺は将来のことを話してるんだ!」 すると「でも今すぐに仕事は出来ないじゃないか」と言うようなことを話していた。 これは僕の思い過ごしかもしれないが、要するに彼女に「こいつはすぐに金づるにはできない」というようなことを言っていたんだと思う。 結構むかついた。 その男の子はかなり真剣に彼女のことを考えていたし、それは彼女も同じように見えたので、僕は余計むかついた。

こいつはオレの友達だ。 自分だって英語が上手なわけでもない日本語が上手なわけでもない、何でそうやってオレの友達を見下したようなことを言うんだ、というようなことを言ったら、ここがあまり聞き取れなかったのだけど、自分は英語は話せるとかなんとかいわれたので、そんなに能力があるなら何でこんなところで売春なんかやってんだ、って言いかけたところで、その男の子の彼女が僕にストップをかけた。

しかし何でそういう胸糞の悪いことをいうのかと思う。 僕がわからないと思っているんだろうか。

で、その後、アパートの話をしていたら、なんか知らない女が来て、英語日本語タイ語混ざりで聞いても居ないのにベラベラと説明し始めた。 自分はラムカムヘン大学で勉強してたけど、その辺りはアパートが安いからその辺に住め、とか言い始めた。 正直そこまで色々な言葉をゴチャゴチャで話されると聞いているほうはいちいち頭を切り替えないといけないのでかなりウザイ。 で、悪いんだけどタイ語で話してくれない?って言ったら「お前には聞いてない」って言われてカチンと来た。 「オレは別に教えてくれと頼んでない」といったら、「自分は友達に説明しているだけだから黙ってろ」って言われたので、「俺はお前が話しているのを聞きたくない。 あっちへ行け。」と言った。

非常に腹が立った。更に自分に金を払ってガイドを頼めばどうのこうのといい始めたので、いよいよ頭に来て「誰もお前に頼まない、あっちへ行け。」 といった。 以上全て敬語なのでタイ語を知らない人には絶対にわからないような口げんかだった。

非常に腹が立つ。 みんな僕がタイ語を話せることを知っているので僕を警戒しているので、こいつは僕が1人だったら絶対にこういうことは言わないのだ。 この日本人の男の子がうまい金づるになるかもしれない、と思っているから、こういういんちきくさいダマシをかけに来るのだ。 それだけならまだいい。 加えてタイ語で日本人にはわからないように裏でぶつくさ影口を叩いているのは、更に腹が立つ。それさえなければまだ話を聞いてもよかった。 しかも、こういうドロドロした攻防はタイ語で行われており、この純粋な日本人の男の子にはわからないのだ。 この男の子は非常に性格のよい子で、そういういい子にくだらないダマシをかけるのは更に腹立たしかった。

本当にここには腐った女しか居ない。 実にそう思う。

実は、以前もタニヤに遊びに行ったときも、ほぼ同じ様な経験をして、二度と繁華街に遊びにいきまいと思ったことがあった。 その時は、つまらないウソをついて300バーツを僕からせしめようとした女が居たのだ。 日本円でたかが900円かもしれないが、タイの物価では3000円ぐらいのインパクトはある額なのだ。 それはきっちり白黒つけないといけない。 粘って300バーツ返せと言ったが、周囲の取り巻きが酔っ払ってるから何とか言って結局返さなかった。

帰りに周囲の女の子がご機嫌とりに来たが、胸糞悪かった。 で、また来るかと聞くので、こんな嫌な思いしたのに誰が二度と来るか。と正直に言った。 彼女らご機嫌取りの子は正直で結構性格のよい子だったが、とはいえ300バーツに関して同僚がウソをついていることも知っていた。 だけど仕事の関係上はっきりとホンネを言えないらしく、苦笑していた。

何で金を払ってまでこんな胸糞の悪い思いをしなければならないのか、と思って辟易した。 その時、もう二度とここにはこないだろうと思った。



ちなみにその口の悪い女だが、あとで聞いたら、その女、日本人と結婚して子供が3人居たのに捨てられて養育費ももらえないという話を聞いた。 人生色々あるが、僕は何も悪いことはして無い。 何故つまらない悪口を言うのかと僕は思う。

まぁ要するに僕が居れば絶対に男を騙せないわけで、要するに僕は彼女らの商売の邪魔なのだ。



色々あったが、その男の子とは明け方まで話しに話して別れた。

9:43 AM 10/15/2008 ~ 11:02 AM 10/15/2008
  


Posted by ピイカウホア at 23:43Comments(4)